近年、若者の間で急激に人気がアップしているブランドがあります。
それが、「フィラ(FILA)」です。
フィラといえば、少し前はまさに「ダッドシューズ」の象徴といった立ち位置で、西友やダイエーの靴コーナーに置いてあるような存在でしたが、今ではすっかりおしゃれアイテムとして定着し、男子は「チャンピオン」、女子は「フィラ」といった具合に、街にロゴがあふれています。
このブームのきっかけはなんだったのかを紐解くと、「フィラ」の意外な秘密が見えてきました。
今回はその秘密に迫ります。
目次
フィラ(FILA)の歴史 – ブランドの発祥は「イタリア」 から
フィラは、1911年、イタリアに誕生したブランドです。
当初はニット素材の工場として創業しましたが、その後アンダーウェアの販売に転換。さらに、1970年代からはテニスウェアを中心としたスポーツウェアの製造販売に転換しました。
高いニット技術裏付けられた性能に加え、それまでテニスウェアは白のみとルール上でも決められ、全身白一色だった業界に、トリコロール風の色をアクセントに加えた斬新なデザインが一躍人気を集め、おしゃれなテニスウェアとしてトップブランドに上り詰めました。
その後、ゴルフウェアへの進出や様々なスポーツ選手やアーティストとのコラボを経て、世界的なブランド知名度を獲得していきました。
当初日本では世界長ユニオンがフィラ(FILA)をライセンス製造
当時の日本でのスニーカーの販売ライセンスは「世界長ユニオン株式会社」が獲得していました。
世界長は個社としてのブランド知名度こそ一般的とは言えませんが、創業は1919年の老舗です。
かつてはパンサーシリーズなどの自社ヒット商品もありましたが、自社路線からOEM路線に転換し、その製造能力と品質は高く評価されていました。世界長はフィラの輸入販売と自社企画商品を展開しました。
フィラ(FILA)本社の経営が傾き韓国の子会社が逆買収!ついに韓国ブランドに
順調に業域を拡大したフィラでしたが、拡大の代償として世界で安売りが横行し、値崩れとブランド価値の低下で客離れが深刻化してきたのです。
それを当時の経営陣では払拭できず経営が悪化。様々な投資ファンドやスポーツビジネスグループに資本が移った後、韓国向けの販売子会社として設立された「フィラコリア」に逆買収され、ついに韓国ブランドになりました。
フィラコリアの尹潤洙(ユン・ユンス)会長は、一介のサラリーマンから猛烈な働きぶりと圧倒的な実績でのし上がった、「韓国で最も有名なサラリーマン」と呼ばれた人です。
そのユン会長が、米国事業を立て直し、新興国展開を志向したことで急速に業績が回復しました。
日本では「カネボウ」に変わり「伊藤忠」がライセンス獲得。製造元は「丸紅フットウェア」に
日本では経営不振の「カネボウ」から「伊藤忠商事」にブランドマネジメント権が移り、スニーカー製造については伊藤忠と関係の深い丸紅系列の「丸紅フットウェア」に変更されました。
丸紅フットウェアはOEMと商社機能の会社のため、ほぼ一般的な知名度はありませんが、今最も勢いのあるアウトドアブランド「メレル」の日本総代理店を務めたり、最近では自社ブランドとして子供向けの「IFME(イフミー)」も展開しています。
良くも悪くもOEM風だった世界長ユニオン時代から、よりトレンドを掴んだデザインを志向するようになります。
フィラ(FILA)逆買収後のデザインの変化ボリューミーな「バッシュ風」に
以前は、良くも悪くもOEMらしいクセのないデザインという印象で、シューズサイドのフィラロゴが逆にイケてない印象を与えていましたが、現在はブランドの本拠地である韓国で流行のバッシュ(バスケットシューズ)風デザインを採用し、よりぽってりとボリューミーな印象にチェンジ。
ちなみに、韓国では日本以上のスニーカーブームが到来しており、ファッションアイテムとしての浸透度は日本以上。
並行輸入品として日本の通販サイトで売っているスニーカーの多くは実は韓国からの輸入だったりします。
WEGOなど原宿のセレクトショップからブーム再燃
さて、そんなフィラですが、日本での再ブレイクはやはり中高生が中心でした。
特に近年の「ダッドスニーカー」ブームで、フィラの独特な色調が逆にかっこいいという評価を勝ち取り、原宿のセレクトショップでは絶対に外せないおしゃれアイテムになっています。
いかがでしたでしょうか?
一時は安物のレッテルに苦しんだフィラのスニーカーですが、韓国の子会社からの逆買収や「ダッドシューズ」ブームにより確実に息を吹き返しています。
今後、トレンドアイテムとしてだけではなく、ABCマートの国内プライベートブランドである「VANS(バンズ)」や「チャンピオン」のように、定番ブランドとして定着していくことは間違い無いでしょう。これからの展開に期待です!