世界トップのシューズメーカーである「ナイキ」と、日本が誇る世界ブランド「アシックス」。
スニーカー業界で日夜熾烈な競争を繰り広げる両社の間には、創業当時から続く深い縁と因縁の歴史があるのをご存知ですか?
今回は、両社の関係を深く掘り下げて見たいと思います!
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目次
ナイキとオニツカタイガー(現アシックス)因縁の歴史
自身も陸上選手だったナイキ創業者フィル・ナイト
その鬼コーチだったビル・バウワーマン
話はナイキ創業のはるか前に遡ります。
ナイキ創業者のフィル・ナイトは、オレゴン大学の学生時代、陸上選手として活躍していました。
実はその時に鬼コーチとしてフィル・ナイトを指導していたのが、後の共同創業者であるビル・バウワーマンでした。
ビル・バウワーマンは激しいトレーニングや根性論だけではなく、技術面の研究にも精通し、特にシューズの改良に異常な執念を燃やしていました。
コーチ時代から、自らシューズのアイデアをメーカーに売り込んだり、ついには自ら技術を学んで自分自身の手でランニングシューズを作っていたというので、その執念たるや恐ろしいものです。
自ら手がけた手作りシューズをテストがてら自身の教え子たちに履かせ改良を重ねた結果、そのシューズは抜群の性能を発揮。そして、選手たちに五輪出場などの数々の栄光をもたらし、業界関係者からの注目を集めていたといいます。
フィル・ナイトは学生時代から日本の技術力の高さと製造コストの低さに注目し、チャンスを見出していた
フィル・ナイトは、大学卒業後、軍への召集の後、スタンフォード大学のビジネススクールに進学します。
フィル・ナイトは、在学中にビジネスプランの論文「日本の運動靴は、日本のカメラがドイツのカメラにしたことをドイツの運動靴に対しても成し遂げ得るか」を書き上げており、当初から日本の技術の高さに注目していました。この論文の上梓がキッカケで、将来のランニングシューズ会社の起業を決意したといわれています。
フィル・ナイトと鬼塚喜八郎の運命的な出会い
そして、そんな折、運命的な出会いで創業物語は一気に加速します。
1963年に大学の卒業旅行で日本に立ち寄ったフィル・ナイトは、京都の商店でオニツカタイガーのシューズを見かけます。
そして、その品質の高さと価格の安さに衝撃を受けたのです。
これはビジネスチャンスだと確信したフィル・ナイトは、帰国後、すぐに起業準備に取り掛かり、すぐさま神戸の鬼塚商会本社を訪ね、役員たちに直談判します。
脅威の行動力でオニツカタイガーの販売委託契約を獲得
オニツカからすれば、妙に暑苦しい得体の知れない外国人でしたが、その熱意を買われ、まさに押しの強さだけでアメリカ国内でのオニツカタイガーの販売委託契約を取り付けることに成功したのです。
委託契約時、実はまだ正式に会社も出来てない状態で、その時に話した「ブルーリボンスポーツ社」という社名も「東海岸にある支店」の存在も全て丁稚上げだったという逸話が残っています。
鬼塚喜八郎は、後に
「裸一貫で事業を始めたいとの彼の心意気に創業当時にリュックをかついで全国を歩いた自分の姿が重なり、この若者に思い切って販売店をやらせてみることにした。」
と日経新聞の連載で語っており、勢い任せの青年にどこかシンパシーを感じたことが、論理を超えた決め手になったそうです。
ビジネススクールを出たエリートにも関わらず、論理より情熱が優先してしまう破天荒振りがフィル・ナイトの魅力でもありますね。
その辺りの経緯はこちらのフィル・ナイトの自伝に詳しく書いています。
BRS社を創業し、全米でオニツカタイガーを拡販
さらにアメリカ受けする製品作りもアドバイスするように
晴れて販売委託契約を獲得したフィル・ナイトは、かつての恩師でありシューズ開発の第一人者だったビル・バウワーマンと「ブルーリボンスポーツ社」を創業し、オニツカタイガーの米国での販売をスタートさせました。
創業当時は社屋も無く、クルマの荷台に山ほどシューズを載せて売りさばく行商屋状態でしたが、元々体育会系のアスリート思考のフィル・ナイトは、見る見るうちに業容を拡大して行きます。
しかし、販売こそ順調だったものの、拡大拡大と推し進めた結果、資金繰りは自転車操業で常に火の車でした。時には、公認会計士の資格を持つフィル・ナイトが、会計士のアルバイトをして食いつなぐこともあったとか。
販売を加速する一方で、フィルとバウワーマンは、オニツカの高い製靴技術を学び取っていきました。
また、フィル自身のアスリート経験や、バウワーマンの長年の研究成果から、全米でウケる新商品のアイデアを逆にオニツカに提案し、大ヒット商品を生み出していきます。
その代表格が、ビル・バウワーマンの渾身作「コルテッツ」です。
ビル・バウワーマンの渾身作「コルテッツ」とは?
コルテッツの誕生は、ビル・バウワーマンの指導者人生の集大成といえるものでした。
ビル・バウワーマンがオレゴン大学の指導者だった頃、教え子の長距離ランナーで、オリンピックにも2度出場したケニー・ムーアがトレーニング中に不幸にも骨折をしてしまいます。有望な選手だったケニーを再起させるためにビルが手がけた特製シューズが「コルテッツ」の原型となっているのです。
最大の特徴は、そのソール。
当時、通常では単一のスポンジ素材で設計されることの多かったソールに、2枚の柔らかいスポンジラバーと固めのスポンジラバーをサンドイッチのように挟み込んだ多層構造を採用しました。
これにより、クッション性能が格段に向上し、EVAソールが出回る前のランニングシューズ業界を席巻することになるのです。
また、このサンドイッチ構造はそのアピールのために色違いのものが接着されました。その結果、シューズの美しさをも演出することになり、ランナーだけでなくファッションアイテムとしても流行したのです。
>>海外スターも愛用!ナイキ「コルテッツ」のカッコいいストリートスナップ&履きこなし例
またアッパーは、軽量化のためパーツ点数を減らし、縫製箇所を少なくしました。
高機能なソールと流線型のシンプルなフォルムは、より良い走りを目指したビル・バウワーマンの長年の試行錯誤の成果といえます。
突然の裏切りとナイキ創業。ドライなアメリカ式ビジネス
蜜月と思えた、オニツカとブルーリボンスポーツ社の関係ですが、徐々に両社に思惑の違いが発生します。
ブルーリボンスポーツ社は、オニツカタイガーの販売を続けながら、その技術を学び取り、自前でのシューズ販売を画策し始めます。そこには、それまでナイトやバウワーマンが提案したアイデアがオニツカに採用されず撥ね付けられてきたことや、代理店業だけだと利益の上澄みしか取れないことなど様々な鬱憤があり、「下請けではなく自由にシューズを作りたい」という思いが芽生えたのでした。
一方のオニツカ側は、本社の意向をより反映しやすくし、全米でのさらなる拡販を進めるため、ブルーリボンスポーツ社と共同販売会社を設立する準備を開始していました。
下請けからの脱却を目指すブルーリボン社と、海外進出強化のため連携を強化したいオニツカ社との間で考えのズレが生じたのです。
そして、「タイガーコルテッツ」のヒットで自信を得たブルーリボン社は、ついにオニツカからの独立を求めて1971年に新ブランド「ナイキ」を設立。
設立に当たり、オニツカの技術者を大量に引き抜き、さらにはオニツカのライバル会社であるアサヒシューズに製造委託を行って、自社商品の製造販売を開始します。
技術者を奪われただけでなく、ライバル会社にサプライヤーを変えられ、まさに飼い犬に手を噛まれた格好のオニツカとはもちろん販売契約解消です。
アメリカ式のドライなジャッジと見ることも出来ますが、オニツカ側から見れば大変な裏切り行為ですね。
さらに、オニツカにとってショックな出来事は続きます。
二つの「コルテッツ」を巡る訴訟騒動
オニツカとブルーリボン社の提携時代にリリースされ、すでにヒット商品となっていた「タイガーコルテッツ」。
ナイキは、自分たちの発案で製品化した「コルテッツ」をナイキ社の目玉商品として据え、「ナイキコルテッツ」として販売したのです。結果的に、同時期に「コルテッツ」が二種類存在するという状況が発生してしまいます。
そしてついに、この商品の帰属を巡って、オニツカとナイキとの間で訴訟が発生してしまったのです。
そもそも、コルテッツはフィル・ナイトとビル・バウワーマンの発案で商品化されたものですが、生産に当たってはオニツカの製靴技術が無ければ世に出てないものであり、「オニツカタイガー」の名を冠した商品です。
しかし、契約書の盲点を突かれ、オニツカは「コルテッツ」ブランドの帰属はナイキのものであるという訴訟を提起されてしまったのです。
そして、結局はオニツカサイドが折れて和解に応じ、1億数千万円という莫大な和解金を支払う羽目になりました。
技術者も引き抜かれ、海外販売の足がかりを外され、ブランド使用で訴訟も起こされるという、オニツカにとっては海外ビジネスと契約社会アメリカの授業料として、高すぎる代償を払うことになり、まさに踏んだり蹴ったりとなりました。
そして誕生した「ナイキコルテッツ」と「オニツカタイガーコルセア」
正式に「コルテッツ」がナイキの商標ということになり、オニツカはそれ以降「コルテッツ」を販売できなくなります。
その結果、誕生したのが「オニツカタイガーコルセア」です。
一方、ナイキはコルテッツを大々的にPRし、自社の目玉にラインナップに据えます。そして現在まで続くロングセラー商品に育て上げたのです。
コルテッツもコルセアもどちらも現在まで続く人気商品になっていますが、どちらも同じ源流の商品であり、両社の様々なイキサツを踏まえると、なんだか歴史の重みを感じる深い一足に思えてきますね。
誰もが知っているメジャーブランドが、実はかつて親子のような関係であり、様々な確執から袂を分かったというのを知っておくと、スニーカー選びがもっと楽しくなってくると思います!