スニーカーの定番ブランドにして、直近のデータによると全世界売上げ第一位と第三位の世界的ブランドである「アディダス」と「プーマ」。
この二つのブランドが実は元々同じ会社で、さらに兄弟の会社だったことを知っていますか?
今日はアディダスとプーマの分裂と因縁の対決について、5分で理解してもらえるようにまとめてみました。
目次
【5分でわかる】アディダスvsプーマ
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元々は「ダスラー兄弟商会」で仲良くやってた兄弟
靴職人の息子として生まれ、技術を磨いた兄ルドルフ、弟アドルフのダスラー兄弟は、1920年、二人で「ダスラー兄弟商会」を創設し、本格的な運動靴の製造を開始します。
創業当初は街の電気事情が悪く、自転車を代わる代わる漕いで明かりを確保していたという逸話があるほど、手に手を取り合いベンチャーらしい企業活動をしていたそうです。
そして、ブランドとしての転機になったのは、何と言っても1936年のベルリンオリンピック。
なんと、大会の開催期間中に当時陸上界最速の男である、ジェシー・オーエンスを多額のロイヤリティで口説き落とし、自社の靴を履かせることに成功!そして、金メダルを獲得したことでダスラー社の名声は全世界に轟き、大ブレイクのきっかけとなりました。
このアスリートへのシューズ提供の成功は、その後のスニーカー界の定石となっていきます。
分裂の原因は「政治思想」説。戦争が二人の仲を決定的に引き裂いた
そのように企業としての成功を掴んだにもかかわらず、間も無くダスラー兄弟は分裂します。 その原因は、「戦争」と「政治思想」と言われています。
兄弟はともにナチスに入党していましたが、どちらかといえばルドルフの方がよりナチス寄りの考え方で、アドルフは少し冷めた態度をとっていたそうです。それがルドルフには気に入らず、亀裂のきっかけになりました。そして、亀裂を決定的にしたのは戦後、アメリカ軍にルドルフが武装親衛隊参加の容疑で逮捕された際、密告したのがアドルフだという噂が立ったことだと言われています。
それらの歪みから二人の仲違いは決定的となり、戦後早々にダスラー兄弟商会は解体・分裂します。
兄ルドルフはプーマを、弟のアドルフはアディダスを設立
分裂後、主に販売を担当していたルドルフの元には、販売担当の社員たちが、製造を担当していたアドルフの元には製造担当の社員たちがついていく形でそれぞれがブランドを設立。
兄ルドルフはプーマ(PUMA)を。弟アドルフはアディダス(Adidas)を設立します。
分裂の理由が理由だけに両社のライバル関係は熾烈を極めます。
スーパースターの奪い合い〜1960年代の大定番モデルの登場
アディダスは三本線、プーマは二本線とフォームストライプをブランドアイコンとして、両社、シューズの開発競争とシェア争いを激化させていきます。
両社の本拠地は創業の地・ヘルツォーゲンアウラハの街の川を隔た場所にあり、街ごと真っ二つに分裂したと言います。人々は街中でどちら派かを確認するため皆靴を確認するのが癖になったとか。
とはいっても、当初は製造部門を抱えたアディダスが圧倒的優勢。
サッカードイツ代表やバイエルン・ミュンヘンがアディダスのシューズを採用し優勝するなど、世界ブランドへの階段をいち早く登ります。
一方プーマはルドルフ仕込みの営業力を発揮し、ドイツ国内外の有名選手へのシューズ提供に成功。ペレ、マラドーナ、クライフなどが同社のシューズを愛用。ワールドカップでペレがPKを蹴る際にタイムを要求。足元が大写しになったことでサッカーシューズの代表ブランドとして世界に認められました。
そして、1960年代になると、アディダスはスタンスミスやスーパースター。プーマはスウェードなど、全世代に通用する大ヒット商品を生み出します。それぞれ現在まで続く定番商品となっていますね。
ライバル関係が頂点に達した「ヨハンクライフ問題」
そして、そのライバル関係が頂点に達したのが、「ヨハンクライフ問題」です。
当時プーマとの専属契約が成立していた「フライングダッチマン」ことヨハン・クライフでしたが、ワールドカップのオランダ代表はアディダスとサプライ契約を締結。二つの契約に挟まれる形となったクライフはプーマとの専属を優先し、チーム内でただ一人二本線ストライプのユニフォームを着用して試合に出場することになりました。
これはプーマとアディダスの確執の頂点として語られるエピソードとして有名です。
ダスラー兄弟の死。迷走・低迷。そして、ダスラー家との関係消滅
その後も熾烈な競争を続けた両社ですが、1970年頃になるとナイキやリーボックなどのアメリカ勢が台頭します。
さらに、1980年代になるとそれぞれ創業者が死亡。アディダスは二代目のホルスト・ダスラーが手腕を発揮したものの、51歳で急死し、その後の事業継承に失敗。売上げ世界一から陥落しナイキ・リーボックの後塵を排するようになります。
また、プーマはアルミン・ダスラーに継承され、当初は売上げを爆伸させる活躍をしましたが、それはアメリカ市場で安価に靴を売りさばく手法であったため、長続きせず80年代中盤に失速。一度ついた安物のレッテルを剥がすのにその後10年以上の歳月を要することになります。
結局、両社とも経営が行き詰まりついにダスラー家は株式を売却。今では、ダスラー家は両社の経営に一切タッチしていません。
1990年代に新経営体制のもと奇跡の復活
ダスラー家の元を離れた、アディダスとプーマはその後新たな経営体制のもとで見事に復活。
赤字だった経営も黒字に転換し、アディダスは売上げ高で世界一に返り咲き、プーマも企業としての独立を保ち売上げ三位につけ、世界を代表するブランドとしてしのぎを削り続けています。
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