【伝説】コンバース『ジャックパーセル』の由来とは?|バドミントン王とコンバースとの関係

バドミントンチャンピオンジャックパーセル氏

かつて、ロックバンド「ニルバーナ」のカート・コバーン、俳優のジェームズ・ディーンやスティーブ・マックイーンなど、アメリカの伝説的な人物たちに愛されたコンバースの普及の名作スニーカー。

それが、「ジャック・パーセル」です。

このジャック・パーセルというのが人名なことは知っている方も多いと思いますが、どんな人物だったのかまで知っている人は少ないでしょう。

今回は、どこよりも詳しくジャック・パーセル氏の経歴とコンバースとの関係を解説します。

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カナダ生まれのジャック・パーセル氏の幼少期

現役当時のジャックパーセル氏

カナダのオンタリオ州グエルフで生まれた、ジョン・エドワード・“ジャック”・パーセルは、子供の頃はテニスとゴルフに打ち込んでいる少年でした。

ジャック・パーセルは、1924年にバドミントンを始め、すぐに地元で有名な選手に成長しました。

彼は、1927年から1931年にかけて、5年連続でオンタリオ州選手権を制し、カナダのバドミントン選手権を1929年と1930年連覇しました。そして、パーセルは瞬く間にカナダのトップバドミントン選手となりました。

そしてこの時期、トロントスターというカナダのスポーツ新聞でバドミントンコラムを書くことになりました。このコラムが後にジャック・パーセルの運命を大きく変えることになります。

1931年、カナダに彼に敵う選手がいなくなったためバドミントンの母国イギリスに進出。そこで、彼はダブルスでは優勝しましたが、全イングランド選手権では準決勝で敗退しました。

ついに世界チャンピオンに!一度も負けない絶対的王者

イギリスへの遠征が終わりカナダに戻ると、なんとパーセルは自分のアマチュア資格が剥奪されたことを知らされます。

カナダバドミントン協会は、ジャック・パーセルが渡英前に書いていたトロントスターへの原稿について、彼が有料でプロとしての仕事をしたと主張しました。その結果、彼は望むと望まざるとにかかわらず、プロフェッショナルプレイヤーとして活動を開始したのです。

プロのバドミントン選手としてデビューしたパーセルは破竹の勢いで勝ちまくります。

プロデビューした1931年から1932年までに自分よりランキング上位の主要選手全てを破りました。そして1933年、ついにカナダ、アメリカ、イギリスのトップバドミントン選手を破り世界チャンピオンになりました。

世界チャンピオンになった後、その王座には何度もチャレンジャーが現れましたがパーセルは、1945年に引退するまで一度も負けず無敗のまま世界チャンピオンを守り続けたのです。

1935年にバドミントンシューズ「ジャック・パーセル」誕生。なんと最初はコンバースじゃなかった!

ジャック・パーセルの強さがアンタッチャブル状態にあった1935年、ついにあのスニーカー誕生します。

当初は、コンバースではなくスポルディング社が企画販売を行っていました。その後、スポルディングのシューズの製造を担っていたゴム製造企業の「BFグッドリッチ社(ベンジャミン・フランクリン・グッドリッチ)」に引き継がれます

BFグッドリッチは後のPFフライヤーズ

BFグッドリッチはゴム加工で世界的にシェアを獲得しており、1910年ころからタイヤの製造技術を利用してシューズの製造を手がけました。

BFグッドリッチ社は、その後、革新的なインソール技術を開発し「Posture Foundation」と名付けました。そのインソールの履き心地が「マジックシューズ」と呼ばれるほど評判となり、その後ブランド名に昇格「PFフライヤーズ(ピーエフフライヤーズ)」と呼ばれるようになります。

ジャックパーセルは瞬く間にコートシューズ市場を席捲

さて、ジャック・パーセルも開発に参加したシグネチャーモデルは、素早い切り替えしが必要となるバドミントンコートで最高のパフォーマンスを発揮するため、溝やスパイクのない完全にフラットなソールや、グリップ性の高いゴム、かかと部分に忍ばせたスチールシャンクなどの技術を注ぎ込まれ、そのシューズはバドミントン業界を席巻します。

ジャックパーセルは、20世紀のほとんどの間、屋内屋外、芝、土を問わず、またプロアマ問わずバドミントンやテニスなどコートスポーツのアスリートのほとんどに着用される超名作となったのです。

ちなみに、「スマイリー」と呼ばれるつま先のワンポイントはリリース当初からの意匠です。

ジャック・パーセルの商標ごとコンバースが買収!

順調に売り上げを伸ばし、全米で知らないものはいないブランドとなっていた「PFフライヤーズ(ピーエフフライヤーズ)」ですが、1960年代後半に入るとアディダス、プーマ、オニツカタイガーなどの海外勢やコンバース、ナイキ、リーボックなどの台頭で競争が激化。もはやタイヤメーカーの強みであるゴム製造力だけでは勝ち残ることができなくなります。

さらに、バルカナイズドスニーカーにこだわり続けた結果、トレンドの接着式ソールによるランニングシューズブームに乗り切れず、業績が急落します。

そして、ついに倒産寸前になったところで、1972年、コンバースが商標権とともにPFフライヤーズを買収しました。いわゆる救済的買収というやつです。

その結果、コンバースと 「Posture Foundation」 の両名が入ったジャック・パーセルが一時的に生まれました。

ジャック・パーセルの商標はコンバースに移りましたが、「PFフライヤーズ」はアメリカのアンチトラスト法(独占禁止法)に引っ掛かり、「PFフライヤーズ」はブランドとしての活動を休止せざるを得なくなりました。

ブランドとして消滅する運命にあったPFフライヤーズですが、2003年にニューバランスにブランドを買収されることにより延命に成功。

しかし、その際にはすでにコンバースのブランドとして人気を博していた「ジャック・パーセル」はコンバースに商標が残りました。

ジャック・パーセルは引き続きコンバースが製造を続け、今でも継続的に人気を博しています。

引退後のジャック・パーセル氏の活動

引退後、バドミントン界のレジェンドとして君臨したジャック・パーセル氏は、1950年カナダの総合誌カナディアンプレスから20世紀の優れたアスリートに選ばれました。また、1973年にオリンピックに出場したことはないにもかかわらず、カナダオリンピック殿堂入りしました。彼の現役当時、バドミントンはまだオリンピック競技ではなかったための特例でした。さらに1955年にはカナダのスポーツ殿堂入りも果たすなど、カナダ史上に燦然と輝くスーパーアスリートとして名実ともに認められたのです。

さらにスポーツ以外では、投資家として大成功。トロント証券取引所のメンバーとなり株式ディーラーとして辣腕を振るいました。

そんな、輝かしい経歴を残し続けたジャック・パーセルは、1991年にカナダ・トロントで87歳で亡くなりました。

まとめ

ジャック・パーセル氏はバドミントン界の無敗の帝王でした。

コンバースのスニーカー「ジャック・パーセル」は、チャンピオンとして最も脂乗っていた1935年にBFグッドリッチ社からリリースされ、PFフライヤーズに引き継がれていきました。しかし、PFフライヤーズの経営が悪化、コンバースに救済的買収された結果、スニーカー「ジャック・パーセル」はコンバースのブランドに。

ジャック・パーセル氏はカナダの伝説的なアスリートとして数々の表彰を受けた傍ら、株式投資家として大成功をおさめた、スポーツでも文化的にもレジェンドでした。

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